北越後だより

日文研EYES|TVドラマの小道具と収蔵資料

NHKの大河ドラマご覧になっていますか?
今回は、幕末から明治時代を舞台にした日本経済の父と言われる渋沢栄一の物語ですね。
菊水の創業は1881年(明治十四年)ですから、当時の日本の様子などを映像で知ることが出来、とても興味深く視聴しています。また、主人公が地方の豪農出身者であることから、武士や朝廷貴族ではない一般庶民の目線で描かれる部分も多く、当時の逞しく生きる農民や町民の生活を映像で見ることができるのも嬉しいポイント。近代の酒や食に関する資料を多く収蔵している菊水日本酒文化研究所担当として、所蔵資料と源を同じくするような形状の小道具が映るシーンには大注目!しています。

このドラマの小道具にちなむ収蔵資料を2種ご紹介しましょう。

見立番付

ドラマの第4 回( 3 月7 日放送)。まだ渋沢栄一が家業を手伝っていた青年時代のある日、藍農家をねぎらう宴席の仕切りを任された栄一が、良い藍を育てた農家を、「大関」「関脇」「小結」「前頭」の順に、上座から座ってもらう配席とした場面がありました。

年齢や力関係、前例を全く無視した、いわば実力主義の配席に皆が戸惑う雰囲気もなんのその、「権兵衛さんの藍がいい出来だったのよ。そこで俺は今日は権兵衛さんに大関の席に座ってもらいてえと思ったのよ」と、【武州藍自慢 藍玉力競】を披露するのです。

これは自らが行司を務め、農家が育てた藍の出来を相撲の番付さながらにランク付けしたものでした。すると配席に不服そうだった年配者が「来年こそは、わしが番付の大関になってみせるんべぇ」と笑い、大団円となったのでした。成果を格付けして公開することで、農家のやる気に火を点け、翌年から品質や収穫量の向上を、ひいては地域全体が豊かになることを狙って行った作戦だったのでしょう。

後に実業家として大活躍する渋沢の商才を示すシーンでした。この印象的なエピソードは史実に基づくもので、この番付表は最初こそ手書きだったようですが、評判となり手元に欲しがる人が続出したのでしょう、後に木版刷りになりました。そしてこの番付や元の版木も残っており、渋沢栄一記念館には番付が所蔵されているそうです。観てみたいですね。

 

さて、このランキング表は「見立て番付」といいます。江戸時代の中頃から、相撲や歌舞伎の番付形式に見立てて様々なものを東西に分け、大関から関脇・小結・前頭と並べて対比し格付けする一枚刷りの情報紙ですね。これが庶民の間で大流行となりました。この見立て番付の最盛期は文化文政以後の幕末から明治初期まで、まさに栄一が藍玉力競を作った頃ですね。この見立て番付には色んな種類のものがありました。料理屋、温泉地、流行の菓子、評判の美人や文化人など実にありとあらゆるものがランキングされ、見立て番付として木版刷りで出版され、庶民を愉しませたのです。

 

当時の庶民の生活や価値観などを浮かび上がらせてくれる見立番付、ここ日文研で収蔵しているのは「おかづのはや見」です。

志やうじんもの(しょうじんもの=精進もの)つまり野菜のおかずと、なまぐさもの=魚・肉のおかずを東西に分け、大関から前頭まで当時の人気のおかず名がランキングされているもので、明治十七年の発行です。読み込んでみるとこれが面白い!野菜のおかずの大関は八杯豆腐。江戸の頃より豆腐は定番の食材ですが、八杯豆腐とは一体どんな料理でしょう。江戸中期に出版された豆腐料理本「豆腐百珍」で調べてみました。曰く「絹ごしのすくい豆腐を用い、水六杯と酒一杯をよく煮返した後、醤油一杯を足し、さらによく煮返し、豆腐を入れる。煮加減は湯やっこのようにする。おろし大根を置く」とありました。水6・酒1・醤油1、足して8杯という事でしょう。対する魚・肉料理の大関は目ざしいわし。塩水につけたいわしを数匹ずつ藁で突き刺して干したもの。目の部分に藁を刺すので目刺し、現在でもこの形状で売られている小型の魚がありますから、あれか、と思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。

もちろん食卓には藁を抜いて焼いたものが出されます。番付いっぱいに江戸文字で書かれたおかずの名が並び、どれも素朴ながら滋味深いおかずばかりで当時の食材の豊かさを物語ります。相撲の番付を見立てていますから、芸が細かいのです。行司は、たくあんづけ・
ぬかみそづけなど、現代でいうご飯のお供的なものが並び、年寄はみりんに砂糖にかつお節、勧進元は醤油に塩、味噌といった顔ぶれ。
細かいところまで拘った洒落が効いていて、見れば見るほど面白い発見のある刷り物です。

いげ皿

続いては第18回( 6 月13日放送)。一橋慶喜の兵を集める「軍政御用掛 歩兵取立御用掛」に任命された栄一が、備中の塾(当時の庶民の学校)に何日も通って塾生たちとの交流を深め、見事にたくさんの志願を集めることに成功した回です。このシーンも史実に基づいており、塾は漢学者・阪谷朗廬が塾長を務める興譲館だそうです。この地で行われる鯛網を興譲館の書生らと見に行き、獲れた鯛を肴に酒盛り、「お役人様がどねんしても笠岡沖の鯛網をやってみてぇというんで」と獲れた鯛が運ばれてきたシーン覚えていますか?

この鯛ではなく、盛られていた皿に注目!「いげ皿」でした。いげ皿とは、明治期を中心に伊万里や美濃などの物産地で盛んに焼かれた大衆向けの厚手の印判皿です。「いげ」とは方言でとげを指し、皿の縁をギザギザに波打たせているのが名前の由来と言われており、そのいげと、いげ部分一周に鉄釉をかけて色付けしてあるのが特徴です。

陶磁器の生産が盛んになっていた江戸後期において、高級料理屋などで豪華な色絵の薄手の大皿が用いられる一方で、庶民はこうした大量生産で比較的安価な厚手の藍色一色の印判のいげ皿が使われていた事を伝えてくれる、とても理解が深まるシーンでした。

日文研でも、この当時の庶民の暮らしを如実に伝えてくれる資料いげ皿を多く収蔵しています。庶民の食卓で喜ばれていたであろう多種多様な図柄の中から、菊の文様の皿を中心に展示しています。生活に根差した大衆の食器いげ皿について詳しく書かれた文献は見つかっていないのですが、こうしてテレビで、それも時代考証をしっかり行っているNHKの大河ドラマでいげ皿が使われていたことがとても嬉しく、この場面を見た瞬間、思わず「いげ皿っ!」と、叫んでしまいました。

江戸時代・近代など歴史区分の言葉になると、途端に歴史の教科書の中のことの様に感じてしまいますが、今も昔も人は食べて飲み、人と語り、笑い泣き、知恵をしぼり、働き、与えられた時間を懸命に生きていることに違いはありません。残された資料の数々を見、またそれらと同型のものを使っている歴史ドラマなどを見るたびに、時間は流れど基本的な人の営みは地続きなのだという思いを新たにします。長い時間の中で人々が生きている生活の中で、酒がどのように飲まれていたのか、酒とは人にとってどんな存在であったのか、人は酒にどんな役割を求めたのか、そんな問いかけへのヒントがみつかる日本酒文化研究所でありたいと願ってやみません。

・参考
渋沢栄一記念館公式サイト

http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/kinenkan.html

渋沢栄一の見立て番付を紹介するにあたり、渋沢栄一記念館様にご協力をいただきました。この場を借りで深く御礼申し上げます。

NHK「青天を衝け」公式サイト

https://www.nhk.or.jp/seiten/

・デジタルブック版菊水通信はこちら
https://www.kikusui-sake.com/book/vol16/#target/page_no=7