北越後だより

2024年01月03日

にごり酒の今と昔。どぶろくって何?

寒い時期、鍋物など温かいものはもちろん、甘い物・パンチのあるもの・お腹にたまるボリュームのあるものなどが無性に欲しくなりませんか?気温が低いと体温維持のため必要エネルギーが増えるからね、などとちゃんと調べもせず、都合よく解釈して冬に美味しい物をたくさん頂いています。お酒では「にごり酒」が美味しい季節です。米の粒々が多く残る濃厚なにごり酒から、滓がらみのような薄にごりまで様々なにごり酒が店頭を飾っています。吟醸酒などすっきりキレイな味と表現される清酒に対して、素朴な温かみ、舌触りの残る飲みごたえなど、にごり酒が寒い時期に人気があるのはその味わいに加えてホッとできる朴訥さも理由の1つかもしれません。 験(しるし)なき 物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべきあるらし  訳:考えても仕方ない思いなどはせず、一杯のにごり酒を飲むのが良いらしいよ価無き宝といふも一坏の濁れる酒にあに益(ま)さめやも 訳:価値をつけられないほどのお宝といっても、一杯のにごり酒の価値に勝るものか百人一首に載る大伴旅人の歌です。大友旅人は飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿(朝廷に勤める身分の高い役人)であり、優れた歌人でもありました。公卿でもにごり酒に癒されていたのですね。昔からにごり酒が身分の上下を問わず広く愛されていたことがわかります。 ■米の酒の歴史 清酒と濁酒 清酒つまり日本酒造りで、醪を個体(酒粕)と液体(酒)に分ける「上槽」工程(いわゆる「濾す」作業)を行った酒よりも、にごり酒のほうが歴史が古そうなのは想像がつきますよね。少し日本における酒造りの歴史をたどってみましょう。 縄文後期から弥生前期には大陸の水稲技術が伝来、日本におけるにごり酒の歴史はこれとほぼ同起源といわれています。神祭の際、にごり酒はコメと並んで神に供えられるものでもありました。飛鳥~平安時代の律令制度の下、朝廷においては酒・醴及び酢を造る役所である造酒司(みきのつかさ・さけのつかさ)があり、儀式や酒宴など朝廷貴族の為の酒が造られていました。平安時代の律令の施行細則である「延喜式」には、宮中で造られた13種の酒について記録されています。その中の御酒は甘口で酸の少ない清酒(すみさけ)、醴酒や三種糟は仕込みに酒を用いていることから現在の甘酒やみりんのようなトロリと甘い酒、一方で下級役人用には水の割合の多い頓酒・汁糟だったそうです。奈良時代に各地で編纂された正税帳(律令制下、国司が中央政府に提出した一年間の正税の収支決算書)にも色々な酒の種類が記録されています。濁酒・白酒・粉酒・辛酒・醴などです。清酒(すみさけ)は滓と対比されて記載されていることから、上澄みか布で濾過した酒と考えられています。地方においても、支配階級用に様々なタイプの酒が造られていたことが分かります。一方で庶民(農民)に対しては度々禁酒令が出されており、自由に酒を飲むことは許されていませんでした。例外的に庶民が酒を作り飲むことができた機会は、農耕儀礼(国見・歌垣による酒宴)・神への信仰(神饌の酒 直会)・狭域市場の開設(市の酒)・給酒(国府で造られ給付されたもの)に限られ、基本的に濁酒だったそうです。このように飲める酒を見ても階級における貧富の差は大きく、庶民は清酒(すみさけ)の様に上等とされる酒は手の届かない存在であったことが伺い知れます。平安後期からは貴族同士の争いが増えたことで国が混乱しました。次第に造酒司で働いていた技術者が流出し、酒造りは市中の酒屋そして大きな権力を持つ寺院や神社でも行われるようになりました。鎌倉時代に入って商業が盛んになり、貨幣経済が各地へ行き渡ります。酒が米と同等の経済価値を持つ“商品”として流通するようになりました。寺院における酒造り、当初は自家用・贈答用が中心でしたが室町初期の15C半ば以降には商業的規模で酒造りを行うようになりました。主に近畿地方の大寺院で造られ、これらの酒は総称して「僧坊酒」と呼ばれ、その品質の高さから非常に高く評価されていました。「御酒之日記」「多聞院日記」として僧坊酒の記録が残されています。酒母仕込み・三段仕込み・諸白造り・火入れなど現代の日本酒醸造の骨格をなす工程を行っていたことが読み取れます。僧坊酒の筆頭格は奈良の正暦寺。正暦寺での酒造技術は非常に高く、天下第一とされる南都諸白に受け継がれました。現在でも正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建立されています。当時の技術の粋を生かして造った清酒つまり、濾して澄んだ酒が上等品とされていたことを示していますね。応仁の乱以降、各地の大名たちが勢力拡大を図り戦国時代がはじまります。この群雄割拠により、それまで都から「田舎酒」と呼ばれていた地方の酒が台頭し、京都にも進出するようになるのです。代表的なものは、西宮の旨酒・加賀の菊酒・伊豆の江川酒・河内の平野酒・博多の練貫酒など。ここでは練貫酒に注目しましょう。練貫酒とは、もち米で仕込み、醪を石臼ですりつぶして造った酒。練絹のような照りを持ち、トロリとしたペースト状だったそうです。味わいはかなりの甘口で、京の貴族にも戦国大名の間でも評判だったとか。中央の僧坊酒に代表される上澄みや濾した清酒が何より上等品との価値観から、地方発の様々な美味しい酒が見い出され、個性あふれる味わいにも人気が出てきたといったところでしょうか。安土桃山時代にイエズス会宣教師たちが編纂した「日葡辞書」には、日本の酒造りに関する語として、新酒・古酒・清酒・濁り酒・白酒・練酒などの酒の種類が記載されているそうです。古代から中世まで駆け足で各時代の酒を概観してきました。古代の素朴な祈りの酒、中世寺院の技術を駆使して贅沢に仕上げた澄み酒・清酒の特別感、醪をすりつぶすなど個性あふれる地方各地酒などなど。儀式で古式ゆかしく戴く酒、同士と酌み交わす気取らない酒、珍しいご当地の酒、長い歴史の中でそれぞれの場面に相応しい酒が造られ、飲み分けられてきたことがわかります。江戸時代になると都市に商工業者が台頭し、農村においても副業的な小規模な酒造りが行われます。中期にかけては、市場が拡大するとともに大規模な造り酒屋が出現するようになりました。一方、幕藩体制のもと米価の調整は財政上重要な課題であり、大量の米を使用する酒造業に対して厳しい統制が行われました。1657年(明暦3)に幕府は酒造りを「酒株制度」と呼ばれる免許制とし、酒税の徴収と統制をかけました。酒株とは酒造人を指定して酒を造る権利を保障するとともに、使用する米の量の上限を定めるものでした。記録によると1698年(寛政2)の醸戸数は全国で27,251だったそうで、1960年(昭和35)の清酒醸造免許場の約4,000場、2018年(平成30)の1,600場と比べるとなんと多いこと!醸造数量など諸条件に違いがあることから場数だけの比較は少々乱暴とは思いつつも、その差には驚かされます。この江戸時代、一般に販売されていた酒は清酒(諸白の澄み酒)・濁酒(片白のにごり酒)・清酒の滓を集めた中汲み(醪の上澄み部分と沈殿部分の中間部分から汲み取った半清半濁の酒)の三種類あったと言われていますが、江戸初期までは一般に酒といえばにごり酒をさしていたようです。江戸中期には料理茶屋が発達し、武家社会を中心とした飲酒が広まりました。また酒の小売店の一角で飲酒させる居酒屋も生まれ、庶民も冠婚葬祭以外でも飲酒できるようになりました。明治時代には日本酒造りが科学的に解明され、各地で醸造技術の近代化が進みます。続く大正~昭和には一層の技術革新もありましたが、一方で世界大戦が酒造業界に大きな負の影響を及ぼしました。戦後は高度経済成長に伴って日本酒消費量は大きく伸長しましたが、1974年石油ショックによる不景気などの要因で消費は減少に転じます。社会情勢が乱高下する状況下においても、各蔵元は製法や品質に磨きをかけ熱心に訴求を行いました。その結果、地元の酒とナショナルブランドといわれる大手メーカーの酒に加え、個性豊かな各地方の酒を楽しむ、いわゆる地酒ブームも起こったのです。 [caption id="attachment_1829" align="aligncenter" width="1000"] 日本山海名産図絵(寛政11年初版刊行) 伊丹の酒造り 其五 酒あげすましの圓[/caption] さて、ここで現在の酒税法における定義を明確にしておきましょう。清酒とは海外産も含め、米、米こうじ及び水を主な原料として発酵させてこしたものを広く言います。【酒税法第3条第7号】に以下のように定められています。次に掲げる酒類でアルコール分が22度未満のものをいう。イ) 米、米こうじ、水を原料として発酵させて、こしたものロ) 米、米こうじ、水及び清酒かすその他政令で定める物品を原料として発酵させて、こしたもの(その原料中当該政令で定める物品の重量の合計が米(米こうじを含む。)の重量の100分の50を超えないものに限る。)ハ) 清酒に清酒かすを加えて、こしたものまた、清酒のうち 「日本酒」(Nihonshu / Japanese Sake)とは、原料の米に日本産米を用い日本国内で醸造したもののみを言い、「日本酒」という呼称は地理的表示(GI)として保護されています。「こす(濾す)」工程がポイントです。つまり「こす」工程を行わない製法のにごり酒は清酒・日本酒のカテゴリーに含むことはできません。言い換えると、こしてさえいれば多少濁っていても清酒のカテゴリーなのです。では「どぶろく」は?続いてどぶろくについて整理してみましょうか。 ■どぶろくが繋いできたもの にごり酒というと「どぶろく」をイメージされる方も多いのではないでしょうか?どぶろくは米を使った酒類のもっとも素朴な形態です。清酒に比べ未発酵の米に含まれる澱粉や、澱粉が分解した糖によりほんのり甘い風味が特徴ですね。このどぶろくと清酒に分類されるにごり酒は製造工程で区別されます。前述のとおり米・米麹・水で造った醪を上槽(搾る・濾す)したものが清酒、この工程を行わないものがどぶろくです。どぶろくは日本の酒税法では「その他醸造酒」に分類されます。このどぶろく、長い間農家をはじめ造り酒屋ではない一般庶民の間で日常的に作られ飲まれていました。しかし、日本では1899年(明治32)にどぶろくを含むお酒の自家醸造が法律により全面禁止されています。お酒を造るには「酒類醸造免許」が必要です。つまり免許を持つ酒造会社が販売するにごり酒を買って飲むことはできますが、免許をもたない一般家庭ではどぶろくを造ることも飲むこともできなくなったのです。禁止の法律ができたのは120年以上も前ですので、今では自家製どぶろくといってもなじみのある方は多くないかもしれません。しかし昔は自分の家で造った酒を飲む方がとても多かったのです。家族が内輪で飲むばかりでなく、正月・お盆・彼岸・祭り・結婚式・葬式・新築祝いなど人の集まる行事でもよくどぶろくが振舞われていました。特に農家などでは自家製どぶろくは生活に欠かせない物、なくてはならない日々の支えでした。どぶろくはその味わいが、酸味の強/弱、甘口/辛口、濃い/薄い、など仕込む家ごとに違っていて、各々の家の、造る人の個性があったそうです。農作業の合間に、何かの寄り合いに、冠婚葬祭にと皆で飲み交わし、何処の家のが旨いの、誰それの味が好みだのと、批評しながら楽しく飲んでいたと。当時の農村を中心とした社会の親睦に必要であり、皆の慰安であり、力仕事に必要な滋養強壮の酒であり、必需品であったことがうかがえます。法律により自家醸造のどぶろくを仕込むことが禁止となると、「自分の米でどぶろく造って何が悪い!昔からやっていたことなのに!」と密造してしまう家も多くなり、一方税務署はその取り締まりを厳しく行っていた記録が多く残っています。様々な資料や文献にあたると、中でも秋田県がどぶろく王国だったことが記されていました。秋田県の密造の検挙数が多かったのは明治44年の2,727人、大正5年の3,161人、昭和18年には2,327人、昭和36年の3,551人は史上最高となっています。昭和63年発行の秋田県酒造史には戦後のどぶろく密造の推移を次のように伝えています。「太平洋戦争終戦後の一時期は減少をみたが、戦後の農民経済と酒類の供給不足により再び密造が多く行われ、昭和36年史上最高の検挙数をみ、全国第一の密造県として不名誉な歴史を続けてきた…」。記録にはあくまで摘発された件数しか残りませんから、秋田の税務署が他県より厳しかったため検挙数が多かった面もあるかもしれません。とにかくどぶろく造りが盛んだったのは間違いないでしょう。資料に残る密造と摘発の多さは、どぶろくが生活に密着したものであった証左といえるかもしれません。もちろん法にしたがって正しく造られたものを飲酒することが大前提ですが、大きな悲しい事件となってしまった例も、摘発を逃れようとする知恵比べも、それらの資料から、いかに人々がどぶろくを愛していたか、どれだけ生活に必要なものであったか、が浮かび上がってくるのです。正/不正は一旦脇に置くとして、やはり酒は暮らしに寄り添い、コミュニティの潤滑油であり、人々に力を与え、癒す、必需品なのだと思うのです。そしてどぶろくの、どこか郷愁を誘う味わいもまた、密造してまで皆に愛されたた理由の1つではないでしょうか。濃く、甘く、適度な酸味、トロリとした粘度、粒々とした食すに近い食感、この味わいに慣れ親しんだ人がどぶろくの復活を願うのもなんとなく理解できる気がしてきます。  ■どぶろく特区  復活を望む声はもとより、地域振興の起爆剤としてどぶろくが注目されました。2002年の行政構造改革。指定地域内で特定分野の規制を撤廃・緩和し、経済活性化を目指す政府の「構造改革特別区域」構想の1つとして設けられたのが、通称「どぶろく特区」です。酒税法上の「雑酒」の最低製造数量の基準を特例として緩和することにより、どぶろくを製造できる免許を、旅館や農家民宿・農園レストランなどで自分で原料となる米を作っている宿泊施設に限って付与することになりました。同特別地域内でのどぶろく製造と、飲食店や民宿において提供が許可されたということです。どぶろく特区は2003年第一号の岩手県遠野市などを皮切りに、2023年3月認定分までで290地区以上(果実酒・焼酎・リキュール含)が国税庁のリストに掲載されています。旅行で出向きそれぞれの特区でその地域のどぶろくを楽しんだり、神社で行われるどぶろく祭(どぶろくを神前に供え豊饒を祈願した宗教行事由来の祭)で古来のどぶろくを頂き、神と農業の歴史に思いを馳せたりするのも素敵な体験です。神事に、農業に、地域のコミュニティに、そして時を経て地域振興にと、神と人・人と人を繋ぎ、暮らしに寄り添い、人を魅了してきたどぶろくの力に驚かされるばかりです。 どぶろくを調べるにつれ目黒の秋刀魚という古典落語を思い出しました。ご存じの方も多いかもしれません。あらすじは次のとおりです。目黒に遠乗りに出かけたあるお殿様。駆け回ってお腹が空くも弁当の用意がなかったため、一軒の農家で焼いている秋刀魚を家来に買わせ食べました。当時、秋刀魚は庶民の食べる低級な魚とされており、生まれて初めて食べたのです。脂ののった焼きたての秋刀魚の旨いこと旨いこと。お屋敷へ帰ってからもその味が忘れられないお殿様、食事に秋刀魚を出せと無理を言います。台所方は魚河岸から秋刀魚を取り寄せ、内臓を奇麗さっぱり取り除き、蒸籠で蒸して脂をすっかり抜き、毛抜きで小骨を一本残らず抜き去り、身が崩れた秋刀魚を椀に仕立ててお出ししました。当然、目黒で食べた秋刀魚とは全くの別物に仕上がっています。「この秋刀魚はいずれで仕入れたか」と問うお殿様に「日本橋魚河岸でございます」と答える家来。お殿様は一言「それはいかん。秋刀魚は目黒に限る」というオチです。庶民的な流儀で無造作に調理することで素材本来の味が生かされる食材、それを丁寧すぎる程の調理を施すことで本来の美味しさを損ねてしまうという風刺の効いた滑稽噺です。各家庭で造られていたどぶろくの旨さは、この農家で焼いた秋刀魚の旨さに共通するのかも……と思った次第です。吟味した酒米を中心部まで磨き、技を凝らして醸造する大吟醸の研ぎ澄まされた素晴らしい美味しさ。一方で米そのものを味わう様な素朴で無骨などぶろくもまた旨いのです。それぞれに違った美味しさがあるということ。酒に優劣をつけたり、身分階級によって飲める酒が分けられたり、現代ではそんなことはナンセンスです。それぞれの好みに応じて、その時々の場面に応じて、選択できる時代はなんと素晴らしいことでしょう。 ■菊水のにごり酒『五郎八』  一方で、酒造メーカーが醸造するにごり酒は、長年庶民の自宅で造られてきた言うなればラスティックな旨さを、プロの技術で洗練させ安全に仕上げたものといえるのではないでしょうか。一種の昔懐かしさを感じさせる白濁した酒を、長年の酒造りで培った技と科学的根拠で絶妙に整え、安全に飲んでいただける商品として販売しているのです。 菊水で造るにごり酒『五郎八』。発売は1972年(昭和47)、原点はどぶろくです。酒好きの人に「懐かしい、飲みたい」と感じていただける昔ながらの味わいを再現しました。農村地方の古い大きな民家、皆で囲炉裏を囲んでワイワイ飲む絵が浮かぶような。豪快にグィッと飲む茶碗酒をイメージして、酒銘は五郎八茶碗*1からヒントを得ました。ラベルには「田舎酒座」のコピー*2も添えて。*1五郎八茶碗:江戸初期、肥前有田の高原(竹原)五郎八によって作り出されたという、大型の染付磁器の碗。後には大きく素朴な茶碗の総称となっています。五郎八の実在の陶工としての来歴はほとんどわかっていません。*2 本年(2023)ラベルデザインを一新。現在のラベルには上記コピーは入っていません。発売当初よりずっと秋冬限定醸造です。米の旨味がそのままギュっと凝縮されたような濃厚でコクのある味わいはまさに、寒い時期にグッとやりたくなる味わいです。菊水の地 北越後の地元の方々のみならず、広く各地で受け入れていただくことができ、発売50余年を経てなお菊水の秋冬期の代表的商品であり続けています。菊水の社史には、酒税法で規定する酒造免許について菊水の四代目 髙澤英介の思いが記されています。免許は「一般に禁止されていることを特別に許可する、という趣旨。裏返せば、良い酒をよい多く世の中へ供給しなさいという法の精神が読み取れる」と。自家醸造が一般には禁止されている現在、人々が飲みたいと感じる酒を醸し、真っ当な価格で、いつでも買える店に置いていただくこと、それが免許を与えられている酒蔵の役目であるという思いです。にごり酒『五郎八』も蔵元のそんな思いの結晶の1つと我々は捉えています。晩秋に発売のご案内をすると「待ってました!」「もう五郎八の季節なのですね」のお声をいただくことから、もはや冬の風物詩!的存在です。昔ながらのにごり酒の味わいとして懐かしく飲んでくださる長年のご愛飲者に加え、近ごろでは白濁した姿を珍しく感じ、一口飲んでその甘くコクのある味わいを好んでくださる若い方々も増えてきました。ソーダやジュース、ミルクで割るなどカクテル風に楽しむ方もいらっしゃいます。飲むシーンや飲み方は時代とともに変化してきても、素材を生かした滋味に富むにごり酒の味わいは普遍的なものなのかもしれません。寒さが一番厳しいこの時期、うまみたっぷりで身体が芯から温まるようなにごり酒を楽しまない手はありません。時代を超え愛され続けるにごり酒の魅力にあなたも嵌まってみませんか?参考・加藤百一「日本の酒5000年」技報堂出版1987年・坂口謹一郎「日本の酒の歴史」研成社1977年・坂口謹一郎「日本の酒」岩波書店1964年・小泉武夫「日本酒の世界」講談社2021年・神崎宣武「酒の日本文化-日本酒の原点を求めて」角川書店1991年・無明舎出版「どぶどく王国」2006年・秋田健酒造組合「秋田県酒造史」1988年・長山幹丸「どぶろく物語」1977年・本郷明美「どはどぶろくのど」講談社2011年・国税庁サイト内「構造改革特別区域法による酒税法の特例措置の認定状況一覧(令和5年3月認定分まで))2023.11.24閲覧chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.nta.go.jp/taxes/sake/qa/30/03/01.pdf・菊水酒造株式会社「菊水小史」2007年

2022年12月06日

発売50周年 改めまして『菊水ふなぐち』です!

名実ともに菊水酒造の看板商品である“ふなぐち菊水一番しぼり” (旧名称 名称については後述)が発売50周年を迎えました。 ひとえに飲み支えてくださったご愛飲者の皆様あってこその50周年です。心より御礼申し上げます。 “ふなぐち菊水一番しぼり”といえば、この缶(図1:前デザイン)。 全体が金色で、酒樽を模して、白抜きの窓に大きく赤い「菊水」の文字。表現や味わいチャート図、アルコール度数を大きく表示するなど、細かな改良は随時行ってきましたが、全体のデザインを大きく変更することはなく、ずっと長い間、私達社員にとってもこの金色の缶が“ふなぐち菊水一番しぼり”であり続けていました。 今年の発売50周年を迎えるにあたり、私たちはこの商品を改めて〈真っすぐに皆様にお伝えしたい〉と考えました。長い間ご愛飲くださった皆様に感謝の気持ちをお伝えすると同時に、「この味ですよね」とこの酒の美味しさを改めて共有するために。そしてこれからこの商品に出会ってくださるであろう皆様に、「こういう酒です。こんな味わいです。ぜひ試してみてください」とご紹介するためにです。 ■まっすぐ伝わる商品名に。『菊水ふなぐち』 50年前まだ常識の外であったしぼりたての生原酒を、なんとかしてお伝えしたい一心で“ふなぐち菊水一番しぼり”と命名しました。菊水が苦労のすえに開発した画期的な製法が全て込められた商品名です。50年の月日が流れ、加熱殺菌をしない、加水調整をしない、という製法はある程度認知が広まって来たと感じる中で、やはりこの商品を一言で的確に示しているキーワードは*【ふなぐち】だと私達は考えます。 日本酒の製造工程で、仕込んだ醪(もろみ)をしぼる道具を蔵では「ふね」と呼び、その「ふね」の「くち」から流れ出てくるしぼりたての生原酒を、菊水では【ふなぐち】と呼んでいました。菊水の蔵で今しぼったばかりの生まれたて、火入れ(加熱処理)もしない、調合もしない、酒本来の味わいのままの生原酒を表現するのに、【ふなぐち】以上に適した言葉は無いと考え、商品名に採用しました。菊水のこだわりを全て詰め込んだ“ふなぐち菊水一番しぼり”は、慣れ親しんだ良い名前とは今でも思ってはおりますが、少々長い感も否めません。50周年を好機に、思いきって簡潔で且つ特徴を真っすぐに伝える力のある名称に改めようと決めました。新しい名称は『菊水ふなぐち』です。改めまして宜しくお願いします。   ■まっすぐ伝わるデザインに。缶デザインをリニューアル “ふなぐち菊水一番しぼり”という長い名称の時より、50年間ずっと社内では【ふなぐち】という愛称で呼ばれています。一方でお客様からは“菊水”と呼ばれることが多いように感じています。他にも“一番しぼり”や“金の菊水”なんて呼ばれる方もいらっしゃいます。前述のとおり【ふなぐち】という名称こそがこの酒を端的に表していると考えておりますし、社内でも愛着のある呼称ですので、皆様にも【ふなぐち】と呼んでいただけたらな、と思うのです。そのためにはどうしたら良いのか……。発売当時より缶の中央に大きく“菊水”と書かれており、このことがこの商品自体を“菊水”や“金の菊水”と呼ばせている一因かもしれません。今あらためて【ふなぐち】というこの商品の最大の特徴を名称として、飲んでくださる皆様も、造る我々も、共通して【ふなぐち】と呼びたいという願いを込め、缶のデザインも変えよう!新デザインの缶には真ん中に一番大きく【ふなぐち】と記そう!と決めました。 缶全体のイメージを大きく左右する色合いも見直しました。今までのデザインは“金の菊水”と呼ばれるほどに、金色を全面に配したデザインでした。光を放つような金色はとてもインパクトがあり、小さい缶容器ながら存在感を示してくれるものでありましたが、この商品の味わいをまっすぐに伝えているかという視点から見直してみることにしました。しぼりたて生酒ならではのフレッシュでフルーティな香り、キリリと冷やした時の爽やかな飲み心地、原酒ならではのインパクトのあるコク、且つキレの良い後味。全面の金色ではこのフレッシュな香味を表現できていないのではないか?しかし、ガラリと変えることでいつものご愛飲者様を売り場で戸惑わせてしまいたくない、様々に議論は白熱しました。 結果、デザイナーさんは絶妙な匙加減で金色に白色を加えてくれました。今までの“ふなぐち菊水一番しぼり”の雰囲気を纏いつつ、とてもすっきりしたイメージになりました!この商品のフレッシュさ、爽やかさ、キレの良さが感じられる洗練された配色です。簡潔な商品名『菊水ふなぐち』にもとても相応しいデザインと感じます。 実は、発売当初の缶は全体が白色でゴールドは窓枠を彩るアクセント的に用いられているのみでした。 (図2:1972年発売当時の缶)そして、最初にこの美味しさのファンになってくれたのは、新潟のスキーリゾートに遊びに来ていた都会の若い方々でした。従前の日本酒とはひと味違う新鮮な香味を好んでくださったのでしょう。当時の社内資料がなく全くの想像でしかないのですが、落ち着いた色合いの多い日本酒のデザインの中で、この爽やかで軽やかなイメージの白色は、従来の日本酒のイメージに飽き足らない若い感性に向けての情報発信だったとも考えられます。 白色にゴールドのアクセントを入れた缶容器で発売以来、5年後さらに11年後とデザインリニューアルするたびに金色の割合が増え、1986年には金色がほぼ全面となった経緯があります(図3:缶デザイン変遷)。こちらも想像の域を超えませんが、原酒ならではのコク、ガツンとインパクトある味わいを表現したのでしょうか、それとも一升や四合など堂々とした背の高い瓶の中で、小さな缶容器を精いっぱい目立たせたい思いが、光り放つ金色を多くさせていったのでしょうか。デザインの変遷に当時の社員がこの商品に誇りと愛着を持ち、多くの方々に手に取って欲しいと願った想いが見て取れる様です。   商品の特徴と味わいをまっすぐに伝える原点回帰の意味合いも感じさせるデザインリニューアルではありますが、単なるノスタルジック的表現ではありません。新しいデザインの缶に触れてみてください。手触り感が少し違う事にお気づきになるでしょう。白色の部分に特殊インクを使っており、ツルンとした缶では味わえない、ちょっと上質な手触りを感じていただけます。 さて。生原酒といった大きな特徴に比べ、お伝えする機会が少ないのですが『菊水ふなぐち』は国の定めた規定に則り厳選した原料で特別な製法を行う「特定名称酒」です。日本酒は「普通酒」と「特定名称酒」に分けられます。日本の酒税法に定められた製造法と名称に関するルールがあり、一定の条件を満たした日本酒でなければ特別な名である〈特定名称〉を冠することは許されていないのです。この条件は中々に厳格です。原料米は農産物検査法により3等以上に格付けされた玄米(もしくはそれと同等の玄米)であること、麹米の使用割合が15%以上であること、出来上がった酒は固有の香味を持ち色沢が良好であること。これらの基本条件をクリアしたうえで、原料米をどのくらい削っているか、醸造アルコールの使用有無(醸造アルコール使用するタイプは、アルコール分95度換算の重量が白米の重量の10%を超えない)などにより、8種類ある特定名称のうち適したものを名乗ることが出来るのです。吟醸酒、純米酒などの名称を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。これらの総称が特定名称であり、『菊水ふなぐち』はこの中で本醸造酒を名乗ることが許された、特定名称酒なのです。日本酒造組合の調べによりますと、日本酒の国内出荷量に占める特定名称酒の割合はわずか34%(令和3年)であり、これ以外は普通酒・一般酒となります。 大前提として特定の名を冠することのできる基準の造りをした酒であり、そこに加えて、加熱処理を行わずとも劣化しづらい技術を以てのフレッシュさ、加水調整しない日本酒本来のコクなど、この小さな缶の手軽なイメージからはちょっと想像し難いほどの品質を詰め込んでいると自負しています。新しい缶の手触りから、「しっかりした品質の美味い酒を多くの方々へお届けしたい」菊水の心意気を感じていただければ嬉しく思います。   ■語りつくせない想いも整えて記しました。 このように語りつくせない『菊水ふなぐち』の魅力。ぜひ知っていただきたい諸々を、新しい缶に記しています。今まで情報の追加を重ねることで様々なフォントが混じっていた文字情報も、読みやすく整えました。ぜひ手に取って、読んで、味わってください。いつもご愛飲くださっている方々には「なるほどこの美味しさの理由はこれか」と思っていただきたく、はじめましての方にはこの味わいをまっすぐにお伝えすることで手に取っていただけるように、思いを込めて50周年を機に色んな改良を行いました。 50年目の改めまして。『菊水ふなぐち』です。これからもどうぞご贔屓にお願い致します。   *【ふなぐち】は菊水の登録商標です。 ◆WEBマガジン「菊水通信」 https://www.kikusui-sake.com/book/vol21/#target/page_no=7

2022年07月13日

新しいユニフォームはアロハシャツ。

「菊水はお酒を愉しくする会社でしょう?」菊水の社長・髙澤が折に触れ私達社員に問いかける言葉です。 商品開発もご提案も接客もイベントなど、菊水の全ての行動の根幹にはこの言葉があります。 そんな菊水の名実ともに看板商品である『ふなぐち』が発売50周年を迎えました。この記念イヤーを『ふなぐち』好きの皆様と共有したい、日本酒好きな皆様と喜びたい、なんなら日本酒好きじゃない方々とも楽しみたい!お酒を愉しくする菊水、お酒を通して心豊かな生活をお届けしたい菊水、菊水らしい何かが出来ないか…… 出した答えの1つが「アロハシャツ」です。 酒蔵でアロハ?! 夏らしいフランクさがあって、着る人もウキウキ愉しくなって、見る人がつい「アロハ、可愛いですね」と気軽に声を掛けたくなる様な、そのアロハを着た人がそこに居るだけで場がパッと明るくなる様な、そんなお揃いのアロハシャツでお客様とお会いしよう、一緒に発売50周年記念を愉しもう、との想いからです。 アロハシャツって不思議です。菊水には20代〜60代の社員がおりますが、皆それぞれに似合ったのです。皆が何となく着こなせているのです。上の画像は社長を中心に、いつもお客様の最前線に立つ部署の社員の、アロハシャツお披露目で撮影したものです。様々な年代の社員が並んでいますが、皆それぞれに似合っていると思いませんか?可愛いく着こなす人、お茶目に、実直に、少し照れながら、渋めに等々それぞれの個性をアロハが引き立たせてくれるかの様に見え、とても驚きました。早速こちらを公式のSNSに掲載すると大きな反響があり、中には「どこで購入できますか?」の問い合わせもたくさん頂きました。 アロハマジック!アロハ効果恐るべし。着る人の年代それぞれに似合ってしまう懐の深さに興味が出て、アロハシャツの歴史を少し調べてみました。 アロハシャツの歴史を少し ALOHAとはハワイ語で「好意・愛情・慈悲・優しい気持ち・思いやり・挨拶」という意味を表すそうです。ゆったりした着心地、愉しいデザイン、カラフルな色使いのシャツが持つイメージにぴったりですね。ナイスネーミング! です。アロハシャツの発祥には諸説あるようですが、ハワイの日系移民が深く関わっていることは間違いない様です。ハワイのサトウキビ畑で働く日系移民が作業着として着ていた開襟シャツ「パカラシャツ」、これが現在のアロハシャツの原型になったと言われています。常夏の地での畑仕事用作業着が起源ときけば、現在のアロハシャツの、風通しの良い開襟で、身体の動きを妨げないゆったりした着心地といった形状に合点がいきます。 この様に日系移民の作業着として浸透していたパカラシャツ。日系移民は、日本から持ってきていた着物や浴衣が古くなると、その端切れを子供用のパカラ風シャツに仕立て直して着せていたそう。この着物や浴衣の日本独特のデザイン、いわゆる和柄が、現地の人や観光で訪れる人の目を惹き、徐々に人気を博していったのだそうです。 その後、日系移民である仕立て屋「ムサシヤ・ショーテン」が和柄の生地を使った開襟シャツを仕立てて販売、1935年に新聞に「アロハシャツ」という名称で広告を出したのが始まりだそうです。翌年にはムサシヤのアロハシャツを取り扱う中国系移民の洋品店が「アロハシャツ」を商標登録し、1950年代は特に和柄のアロハシャツが多く造られました。南国風やハワイを象徴する柄のものなども多く出回り、ハワイを代表するウェアとして定着、1960年代後半までにはハワイのビジネスシーンにもアロハシャツが浸透したとか。今では冠婚葬祭の場でも着用されるハワイのフォーマルウェアにまでなっていることは皆さんご存知のとおりです。 海を渡った日系の移民の作業着だったパカラシャツ(パカラシャツ自体は英米の船員がもたらしたフロックシャツが由来)、その形を基に着物・浴衣を仕立て直して子供に着せたパカラ風シャツがアロハシャツを産み、長い時間を経てハワイに定着したという歴史、そしてそのアロハシャツをここ日本で『ふなぐち』50周年記念のお祝として身にまとう私達。アロハシャツが海を渡り日本に里帰りして来てくれたような、不思議な感慨を覚えます。 遠く離れた異国の地で、日本独特の生地や文様、言い換えると日本の文化ともいえる和柄が現地の人の目に新鮮な驚きを与え、惹きつけ、多くの人に受け入れられ、長い時間の経過とともに現地に即した変容を重ねながら、現地に定着する…… これは、日本酒が海を渡り受け入れられるまでの道筋と重なって見えました。   財務省の貿易統計に基づく日本酒造組合中央会の発表によると、2021年(1〜12月)の日本酒輸出実績は、金額・数量ともに過去最高を記録、金額では約401億円に達しました。海外での日本酒の人気はうなぎのぼりと言える数字です。また、現地でのSAKE造りを行う蔵も増加しており、ある調査では世界全体で60以上の酒蔵があるそうです。ちなみに「日本酒」と名乗れるのは、日本の国産米を原料とし、かつ日本国内で製造された清酒のみです。よってここでは海外で作られる清酒はSAKEと記しています。 以前より日本酒はこんなに海外で人気だったのでしょうか?そもそも日本酒っていつから輸出されているの?いろんな疑問が湧いてきますね。酒どころで知られる西宮の白鹿記念酒造博物館で、昨年12月より今年3月まで日本酒の海外進出の歴史を追った企画展「酒からSAKEへ」が開催されました。その紹介記事が様々な疑問に答えてくれています。日本酒の海外進出の契機と考えられているのは明治の欧州で開催された万国博覧会。世界に日本酒を知ってもらうために、1878年の第3回パリ万博、1889年第4回パリ万博、1900年第5回パリ万博と複数年にわたって参加し日本酒を出品しましたが、残念ながら万博での高評価にはつながらず、「ほろ苦いデビュー」だったそうです。一方でアロハシャツと同様に日系移民がここでもキーマンでした。同じ頃アジアやアメリカへ渡った日系移民に向け、日本酒が多く輸出されていたのです。遠く祖国を離れ慣れない環境で苦労されたであろう方々に、日本酒が疲れた身体を癒し、心を慰めてくれる必需品であったことは想像に難くありません。移民の為に日本酒が多く輸出された時期、そして戦争時の混乱期を経て、戦後は現地駐在の日本人による需要として日本酒の輸出量は増え続け、また同時に日本の大手酒造メーカーが現地生産を始めました。日本酒や現地生産SAKEは日系のみならず、じわじわと現地の人々にも受け入れられるようになりました。続いて起こった世界的な寿司・和食ブームに牽引されるように日本酒ブームが起こり、現在では先に記した様に日本酒の輸出増大、現地では日本の大手メーカーのみならず現地の人がマイクロブリュワリーを開設したり、日本人が海外で蔵を開き、そこで造られたSAKEが日本で人気になるという、いわば逆輸入の様な現象まで起きているのです。 アロハシャツと日本酒の来た道 菊水でも多くの酒を輸出しています。はじまりは1995年米国NY向けでした。信頼できるディストリビューターさんと出会えたことがきっかけです。 当初はやはり現地駐在員の使う飲食店向けがほとんどだったそうです。ハワイへの初出荷は2001年。その後、米国本土でもハワイでもじわじわと、でも確実に駐在の日本人向けのみならず、現地人向けの飲食店や小売店で菊水の酒の取り扱いが増えていきました。 需要の増加が進む中、2006年にはディストリビューターさんが「もっと日本酒を学び、正しい知識をもって販売したい」と、1週間ほどこちらに滞在し、洗米から上槽まで菊水の酒造工程の一通りを全て体験する酒造研修を受けてくださることになりました。 この研修は日本酒の深い知識を得ていただけたばかりか、現地のディストリビューターの社員さんと菊水が互いのことをより理解しあえるという副産物も与えてくれたのです。そしてこの研修は毎年続くようになりました。 研修にいらっしゃる方々はディストリビューターさんをはじめ、今では菊水の酒を取り扱ってくださる飲食店の方々にまで範囲が広がりました(コロナ禍で現在は休止中)。来ていただくばかりではなく、菊水も動きました。2010年には現地法人 KIKUSUI SAKEUSA,INC.をLAに、続いてNYにも設立しました。かの地でしっかりと菊水の美味しさを伝える専任スタッフが常駐し、日々活動に勤しんでいます。 米国からはじまり、現在ではアジアや欧州など23ヶ国に向け私達の酒を輸出しています。 後にアロハシャツとなる着物や浴衣の素材は、ハワイへ渡った日本人と共に海を越え、日本酒はアジアや米国へ渡った日本人に向け輸出されました。 はじまりは日本人のためだった日本独特のものが、時を経てゆっくりと現地の人々からも受け入れられ、次第に現地社会に溶け込んでいく。衣服の和柄と飲料の日本酒と違いはあれ、それらが辿った道筋はとても似ているように思えます。良い物は国を超え、時を超え、文化の壁を越えそして物自体もその時代やその場に即して変容していくことで、一層愛され残っていくという道筋は共通していますね。ある国の文化といえるものが、異国・異文化へ拡がっていく様に普遍性を感じます。酒造会社である私たち菊水がアロハシャツを着ることに不思議なご縁を感じずにはいられません。 古より続く文化を守ることはとても大事なことです。しかし頑なに昔からの形式だけに固執するのではなく、その文化の本質を大切にしながらも同時に時代に沿った方法を柔軟に取り入れ、今この時代に生きる皆さんとその文化の楽しさや美味しさを共有できることが何より大事だと私たちは考えます。長い時を生き抜きアロハシャツや日本酒が今でも愛されているのは、大きな時流のうねりの中で、たくさんの先人がその時代その場所に合った方法で着用・愛飲してきたからに他なりません。長く愛されているものの歴史を振り返りその知恵を学ぶことで、未来につながっていくのではないでしょうか。 アロハシャツと日本酒の来た道を知り、そんなことを思いました。 菊水のアロハシャツは、アイコン化された『ふなぐち』を四方八方に散りばめ、地色は『ふなぐち』の補色であるブルー、よく見ると菊水紋も描かれています。 爽やかで明るくて、どこか懐かしいノスタルジックなイメージのアロハシャツ、菊水社員それぞれの年代に合わせた着こなしを観にいらっしゃいませんか。 ◆蔵元直送オンラインショップ「KAYOIGURA」 KEITA MARUYAMAデザイン。菊水スタッフ着用のレアアイテムが限定発売! <新発売> 菊水オリジナル ふなぐちアロハシャツ https://www.kikusui-sake.shop/c/shuki/aloha   ◆WEBマガジン「菊水通信」 https://www.kikusui-sake.com/book/vol20/#target/page_no=7 ◆参考 ・サンサーフ(東洋エンタープライズ)「HISTORY OF ALOHA SHIRT Vol.001 /アロハシャツの起源と歴史①」https://www.sunsurf.jp/news/193/ ・お酒の輸出と海外産清酒・焼酎に関する調査(Ⅱ)喜多常夫(醸協2009) ・続・ハワイにおける日本酒の歴史 二瓶孝夫(醸協1985) ・SAKE TIMES 日本の「酒」が世界の「SAKE」となるまで ―白鹿記念酒造博物館で学ぶ日本酒の海外進出の歴史 https://jp.sake-times.com/knowledge/international/sake_hakushika-memorial-museum

2022年06月08日

豊かな穀倉地帯は厳選和牛さえ 育ててしまう!「新発田牛」

菊水が蔵を構える北越後・新発田市。北西部は日本海に面し、東部は飯豊連峰の山岳部に接しています。飯豊連峰に源を発する清流・加治川とその支流は市内を貫流し、河川流域に豊かな大地が開けています。 美しく豊富な水と肥沃な大地、この豊かな土地の恵みを醸しているのが菊水の酒ですが、また一つ、この大地が育んだ新たな「美味しさ」が私達を愉しませてくれることになりました。「新発田牛」です。こちら、厳選に厳選を重ねた、選ばれしブランド牛!   新潟県内で育てられた黒毛和牛で、品質規格等級がA -3、B -3以上のものが「にいがた和牛」であり、安定した人気を博しています。その「にいがた和牛」の中からさらに厳選し、ここ新発田産の良質な稲わらを飼料として育てられ、肉質4等級以上のものを「新発田牛」と称し、2021年より流通が開始されたのです。 厳選和牛「新発田牛」。その最大の特徴は美しい霜降りです。もちろん味わいもこの見目麗しさを裏切りません。脂質の融点が低いため口の中に入れた瞬間に脂が溶け出し、脂といえど、もたれることのない上品な甘味を感じます。上質な脂と柔らかな肉質とが相まって極上の美味しさなのです。 清冽な雪解け水と肥沃な大地、北越後・新発田ならではの気候風土が産む良質で美味しい稲、その稲わらが健康でたくましく旨味たっぷりの上質な和牛を育むのですね。 英語で You are what you eat. ということわざがあります。日本語にすると「あなたは、あなたの食べたものそのものである・あなたはあなたが食べたものでできている」。体や心の健康は毎日何をどう食べたかで決まるとして、食事の大切さを説く格言ですが、これは人のみならず他の動物にも同じことが言えるのではないでしょうか。良質で美味しい米の稲わらを食べて育った牛が、上質な素晴らしい肉質となることは、この格言が示す通りです。 北越後の豊かな大地が産んだ新しい美味しさを、多くの方に召しあがっていただきたいのですが、昨年流通がはじまったばかりです。取り扱い販売店や、味わえる飲食店は現時点では新発田市内が中心です。以下のサイトで調べ、お店にお問い合わせ頂けます様お願い致します。 この美味しさは他の有名ブランド牛にも負けていません。いち早く体感し、グルメなお友達に差をつけてみてはいかがでしょう?   新発田牛についての詳細や、お取り扱い店はこちら https://shibata-ushi.jp/

2022年04月19日

ふなぐち菊水一番しぼり~50年の想いが載る酒~

今から50年前、皆さん何をしていましたか? 50年前1972年といえば……第一次田中角栄内閣成立、日本の鉄道開業100周年、沖縄が日本に復帰、札幌オリンピック開催、と日本が戦後処理の終盤を迎えつつ、近代化に向けて走り出していた頃、様々な出来事があった年でした。 そんな1972年にふなぐち菊水一番しぼり(以下ふなぐち)は産声をあげました。当時とても画期的な商品と言われたのですが、その背景はどのようなものだったのか、当時の清酒業界を知る手掛かりになる資料をみてみましょう。 日本醸造協会誌(1906年創刊の醸造に関する総合専門誌)の1972年1月発行である第67巻第1号に、当時の国税庁酒税課の担当者による「酒類行政と産業政策」の記事を見つけました。 そこに記されていたのは、清酒業界が「古い歴史を持つ在来産業」であること。これまでは「業界内に巨大産業が存在せず」、主原料である米が「長い間統制下におかれ」ていた為「生産シェアが固定化」されていたこと。上記の理由により「平均規模が圧倒的に零細であるにも関わらず、最近まで比較的平穏に推移することができ」ていたとのこと。 しかし此処に来て「需要の変化(消費の高級化・人口の都市集中・マスメディアの発達等)が重なりあって、いわゆる銘柄格差が顕著となり、販売面での上位集中が進んできたこと。「灘・伏見の主産地ブランドイメージ、特に高級酒としてのイメージが強い」ため、他地方の「中小企業の生きる途」は「思い切った合併、協業等により、早急に規模の利益、生産性向上を図る」か、もしくは「適正規模でありうるような分野を造出してそれへ特化すること」と断言されています。そして最後に「大企業による規模の利益が国民に還元されるとともに、中小企業もまた、そのあるべき場所を探りあて、大小が巧くバランスした状況が実現できれば、それこそ清酒製造業の最も望ましい産業構造であろう」と締めくくられています。 このように業界誌で官の立場より提言される程に、時代の変化とともに大手メーカーさんによる販売シェアが勢いを増していたこと、それにより地方の中小蔵元が厳しい状況に置かれつつあったことが読み取れます。 では、民の立場である業界各社はどのように時代を見ていたのか。同誌には 「21世紀の酒を語る」と題し、大手酒造メーカーさん、大手卸売会社さん等による新春放談も掲載されています。いわく、「現在清酒は生産過剰な状態にありますので、これから脱却するのには、嗜好の多様化に対応した商品の多様化というものを積極的に進めなければならないし」、「戦後は全体的に技術が向上し一定水準以上のものが多いので、その上の品質差は少ない」、「歴史的にみますと酒類で新製品というのはなかなか無いんですね。最近の新製品というのは飲料ではコーラ、ヤクルト、カルピス等ですが、それに引きかえて酒なんかで新しいものをときどきいろんな試みがなされておりますが、もう1 つぱっとしない」などの発言がありました。 戦後の技術向上により品質の良い酒を安定的に生産できている状況であること。特に大手メーカーが販売シェアで勢いを増している状況であること。その中でも多様化した嗜好に対応できる新商品が必要であること。他の飲料に比してアルコールには際立ったヒット商品が生まれていない状況に懸念を抱いていること、等々が読み取れます。 加えて、「新製品を作る場合に技術的にはいろいろな可能性はありますが、いまのコーラのように定着するまでの期間、それに対するいろいろな要素、例えば実際売るほうの力が大事です。いまのところでは、そこまで持っていく力の不足を感じさせられるんです」とありました。これからの販売促進方法にも思いを巡らせ、時代の大きな変化への対応に危機感を持っていたことがうかがえます。 また、「普通はかん(燗)して飲む」、新製品を出す場合「全部かん(燗)して決めます」とあり、当時、燗をつける飲み方が多数を占めていたことも示されています。 以上は中央の、国の機関の提言であり、業界を代表する大手メーカーさん、大手商社さんによる放談です。地方の多くの中小メーカーは、またそれぞれに違った状況にあったことでしょう。先の記事に共感する蔵もあれば、少し遠い世界の出来事のように感じている蔵、そもそも中央の動きを全く意識しない考え方など、様々だったことと推察しますが、大きく捉えると、1972年はこの様な時代背景であり、清酒業界の状況だったといえるでしょう。 前述の様な時代に、ふなぐちは生まれました。発売までに3年間の開発期間があったことを鑑みると、その先見性に驚かされます。 国税庁酒税課の提言にある「適正規模でありうるような分野を造出してそれへ特化すること」を、既に目指していたこと。そして新春放談にあるとおり、大手企業でさえ「酒なんかで新しいものをときどきいろんな試みがなされておりますが、もう1 つぱっとしない」状況であった中に、新潟という地方の小さな蔵が画期的な新商品を生み出したこと。何よりこれらが記事の出る3年前には着手され、記事が掲載された時には発売が開始されていたのですから。 開発のきっかけは、お客様の声でした。当時菊水では、蔵見学に来られたお客様へしぼりたての原酒を試飲していただいていました。その生の美味しさは、お代わりを求められたり、「買って帰りたい」とお声が多くあるほどだったのです。清酒は微生物の働きによって醸します。この微生物の働きを上手にコントロールするのが酒造りの大きなポイントの一つです。 商品として流通させるには品質を安定させることが必須、この工程が「火入れ」と呼ばれる加熱処理です。生酒の殺菌を行うとともに、残っている酵素の働きを停止させるのです。蔵でふるまっていたのはこの火入れをする前の生酒です。フレッシュでとても美味しいことは蔵の人間が一番よく知っていたのですが、酵素の働きを止めていない生酒、この後どう変化するか分からないものをそのまま容器に詰めて市場に流通させることはできません。 当時の社長である四代目・髙澤英介は常々こう考えていました。「良い酒を提供するのは蔵元の義務である。酒税法で規定する酒造免許は『一般には禁止されていることを特別に許可する』という趣旨であり、そこには『免許を持つ以上は良い酒をより多く世の中へ供給しなさい』という法の精神があるのだ」と。このような信念を持つ蔵元にとって、蔵でしか飲めないこの美味い生酒を、どうにかして多くの人々に届けられないか、届けるべきだと強い思いにかられたのは、必然だったことでしょう。 信念に基づいた強い思いであったとはいえ、実際に商品にするには様々な問題がありました。当時の若手蔵人を中心に一丸となって研究に取り組みました。従来の酒造工程を一から見直すのは勿論、使用する酒造機器、容器の素材、果ては容量に至るまで。どうしたらこの生酒の味わいを商品化できるか、その目的の為に熟考を重ね、試行錯誤を繰り返しました。 3年の研究期間を経て、生酒のフレッシュさを活かす為、火入れをせずとも酵素の働きをコントロール出来る酒造技術を見出しました。また容器には、ガラス瓶ではなく紫外線を遮断できるアルミ缶を採用することで生酒のデリケートさを損ねずに保てることにも辿り着きます。加えて、一升(1800㎖)瓶入りが常識だった当時において、200㎖という小容量にしたことも、しぼりたての酒をフレッシュなまま飲み切れる分量を意識しての選択です。かくして、火入れ殺菌をしない生酒、飲み切りサイズの小容量、アルミ缶入り、燗にしないばかりかキンキンに冷やして飲む、と当時の清酒の在り様を根底からひっくり返すような斬新な新商品が生まれたのです。 前述した1972年の新春放談の記事に、新しい商品を販売して定着させる難しさも語られていました。ふなぐちのユニークさはこの販売促進法にも表れています。販売促進のスタート地点として目を付けたのは、なんとスキー場でした。1960年代より日本国内はスポーツや旅行などのレジャーブームが巻き起こっており、1972年の札幌オリンピックをきっかけにウィンタースポーツ熱が高まり、その大衆化が進みました。スキーブームの到来です。多くの人で賑わうスキー場に目を付けたのですね。スキー客や温泉客が泊まる民宿の主人に、まずは試飲してもらい、今までなかった生酒の美味しさを知ってもらいます。 そして夕食のお膳にお酒をつけるには、一般的な一升瓶入りの日本酒では徳利に入れ替える手間がかかるし使用後は洗わなくてはいけないが、この商品ならこのままお膳に並べ、後片付けも楽であり、飲まない客は持って帰る事もできる。と、この新時代の酒の美味しさに加え、その利便性をも丁寧に説いて廻ったのです。然して、狙いは見事当たりました。採用してくれる宿が増え、首都圏から遊びに来ていた若いスキーヤーや観光客は宿で飲んだ新しい酒の美味しさを口コミで伝えるようになり、ハンディな缶入り酒はお土産としても喜ばれたのです。 スタートは山形の蔵王スキー場から、その後おなじ手法で越後湯沢、妙高高原、白馬などへ販促活動を拡げていきました。同時に、東京の百貨店に取り扱っていただける様に手を尽くしました。スキー場でふなぐちの味を知った若者が、帰京後に百貨店で購入できるようにしたのです。百貨店1社が採用してくださるに至り、そのユニークさと売れ行きに他の百貨店も追従してくださるようになりました。これでグンと販売量を伸ばすことに成功したのです。 蔵でしか飲めなかった酒を店で購入できるように、スキー場で出会った思い出の酒を首都圏でも買えるように。商品開発も販売方法も、「酒造免許を与えられているからには、良い酒を多く世の中へ提供する義務を負う」、蔵元の信念ともいえるこの思いから産みだされたものといえましょう。 実は、1966年67年と2年続けて菊水の地・北越後では集中豪雨で河川が氾濫し、歴史に残る大水害がありました。菊水の蔵も隈なく大量の土砂に覆われ壊滅的なダメージを被ってしまいました。そして、この水害を機とした県による河川改修もあり、菊水は立ち退きを余儀なくされているのです。その頃は従業員10名ほどの企業規模、2度の水害で蔵も設備も土砂まみれ、挙句に立ち退き命令。蔵元の心情いかばかりか、想像を絶するばかりです。それでも四代目当主は移転再建の道を選択し、資金面でも実務面でも語りつくせない苦難の中なんとか1969年に待望の新工場が完成、稼働させました。 この切羽詰まった状況下にあって常識では考えられない新商品ふなぐちを開発し、発売、思いも寄らない手法で販売促進活動を行い、これをヒットさせるに至るのです。 移転再建から発売まで、この間わずか3年のことでした。 この奇跡の様な商品ふなぐちは、発売から50年経てもなお、名実ともに菊水の看板商品です。発売から46年後の2018年には累計販売数3億本を突破しました。単純計算で1年に約650万本売れたことになります。200㎖入り高さ約10㎝のこの缶を、1年の販売本数を縦に並べたら650㎞。菊水から西へ直線距離で岡山と広島の県境あたり、北上すれば北海道富良野あたりまでに相当する長さ(いずれも地図上の直線距離)になります。お客様が買ってくださった本数の多さたるや、感謝の念に堪えません。 2012年には発売40周年を迎えました。ここまで飲み支えて下さったお客様に「直接」感謝をお伝えしよう!とご愛飲者様のご自宅へ菊水社員が訪問し、感謝の意と共に記念品をお渡しするキャンペーンを行いました。営業部門の担当者を筆頭に、事務方も製造部門も総出で。募集をかけ、「来ても良い」と応募くださった全てのお客様(北海道から九州まで)のお宅へ一軒一軒訪問したのです。このキャンペーン、お客様へ感謝をお伝えする目的だったのが、結果的に菊水が励まされることになりました。 飲み溜めた2年分の空き缶660本を玄関に飾って社員を迎えてくださる方あり、はじめて飲んだのはスキー場だったと、ふなぐちの歴史そのものの思い出を語ってくださる方あり、ご自身の営業活動の手土産として活用してくださっている方あり、訪れた社員が皆それぞれに、お客様のびっくりするようなエピソードを持ち帰ってきたのです。 他にも、同じ年の生まれといってふなぐちに親近感を持っていると笑う方、奥様のご実家である新潟へ結婚の挨拶に行かれた際に、ふなぐちが場を和ませてくれたという方、出張帰りの新幹線でふなぐちを飲み続けて20年という方、ふなぐちを売っていなかった近所のコンビニに頼み込んで取り扱ってくれるようにしてくださった方、子供の頃にお父様が美味しそうにふなぐちを飲んでいたことをきっかけにご愛飲いただくようになった方などなど。 社員が持ち帰ったエピソードを聞くにつれ、ふなぐちにはお客様それぞれの大事な思いが乗っていることに気づきました。長く販売されている商品には、その時間分、飲む方の人生や思い出が積み重ねられていくのですね。 50年前、蔵存続の大きな岐路に立ちながら、常識を覆す様な新商品を開発した当主の思い、その蔵元と新商品の可能性を信じて斬新な手法で販売活動を行った従業員、そして50年という長い間に飲んでくださった多くのお客様。ふなぐちが嗜好品としての日本酒、ただのロングセラー商品というだけではなく、立場の違い、時流を超えて、様々な人の想いを背負っている酒なのだと改めて感じ、感慨を深くしています。 お客様の思い出の中にある酒が、いつでもいつまでもお店に並んでいるということは、お客様の思い出を大切にすること。これを無くしてはいけないと強く思う次第です。 時を経て、販売する拠点はスキー場から全国の酒販店、スーパー、コンビニへ、ご愛飲者様との語らいは直接のご訪問からTwitterなどのSNSへ、様々に形は変わってもふなぐちという出来立ての美味しさをお届けしていく志は変わりません。50周年をヒトツの節目とし、ご愛飲者様への感謝を胸に、これからも菊水はこの酒を醸し続けて参ります。 【参考資料】 ◆日本醸造協会誌第67巻第1号 ◆菊水小史(菊水酒造株式会社発行) ◆NHKアーカイブス回想法ライブラリー自分史年表 https://www.nhk.or.jp/archives/kaisou/jibunshi/

2022年01月13日

にごり酒に合わせたい絶品ひとり鍋。ピリ辛鶏鍋

濃厚でコクのある甘口のにごり酒「五郎八」には、コチュジャンやキムチなどピリ辛のお料理と相性抜群。互いの味を引き立て合って、旨さ倍増間違いなし!の五郎八に合う絶品レシピをご紹介します。 ■鶏鍋(コチュジャン入り)レシピ 【辛うま!鶏鍋】 【材料】(1人分) ・骨つき鶏もも肉もも1本分(約300g) ・じゃがいも1個 ・キャベツ2枚 ・にら2本 ・玉ねぎ1/2個 ・A(ニンニクおろし2片分、生姜おろしたもの大さじ1、しょう油大さじ1と1/3、酒大さじ1、コチュジャン大さじ3、砂糖小さじ1、※お好みで、粉唐辛子(粗め)大さじ1) ・中華スープ600ml ※チキンスープでも 【作り方】 1.じゃがいもは皮を剥き、ひと口大に切って水にさらす。キャベツはひと口大のざく切りにする。ニラは4cm幅に切る。玉ねぎは2cm幅のくし切りにする。Aは混ぜ合わせる。 2.ボウルに骨つき鶏もも肉、水気を切ったじゃがいもをいれ、Aを加えてよく混ぜ合わせて15分ほどおく。 3.一人鍋に中華スープを沸かす。強火にして、2 をタレごと加え10分ほど煮る。 4.キャベツ、ニラを加えてさっと煮る。 温かいピリ辛お鍋と冷えたにごり酒、ぜひお試しください。 ■にごり酒五郎八 詳細はこちら https://www.kikusui-sake.com/home/jp/products/p019/

2021年12月24日

「新米新酒ふなぐち菊水一番しぼり」を嗜むマリアージュ

この秋、収穫したての新潟県産米100%を使用した吟醸仕込みの生原酒「新米新酒 ふなぐち菊水一番しぼり」。さわやかな香りとみずみずしい味わいをご堪能いただける、マリアージュレシピをご紹介します。 【白身魚と生麩のりんごのみぞれ和え】 りんごのフルーティな甘みと三杯酢の酸味が新酒のさわやかな飲み口に好相性。生麩がなくてもお好みで焼いた油揚げや、白身魚も酢だこなどでアレンジして楽しめます。 【材料】 好みの刺身用白身魚(今回は鯛) 50g 生麩 6cm バター 10g りんご 1/4個 だいこんおろし 1/2カップ 三杯酢(酢50ml、砂糖大さじ1、薄口醤油大さじ1/2、和だし汁大さじ1 1/2) 【作り方】 1. 白身魚は1㎝幅に切る。りんごはおろす。だいこんはガーゼなどに包んでさっと流水を流して軽くしぼる。生麩は2㎝幅に切る。 2. フライパンにバターを熱し生麩を軽く焼き色がつくまで焼く。 3. ボウルに1と2の材料を入れて、合わせた三杯酢を適量かけてさっくりと和える。 ___ ◆お買い物サポート 「新米新酒ふなぐち菊水一番しぼり」 お取扱店検索:https://www.kikusui-sake.com/home/search/?sid=9 蔵元直送オンラインショップ:https://www.kikusui-sake.shop/c/sake/funaguchi/shinmai_funaguchi #菊水 #japanesesake #ふなぐち #和食 #新潟の酒 #日本酒好きな人と繋がりたい #おうち居酒屋 #家飲み #宅飲み #おつまみメニュー

2021年08月28日

日文研EYES|TVドラマの小道具と収蔵資料

NHKの大河ドラマご覧になっていますか? 今回は、幕末から明治時代を舞台にした日本経済の父と言われる渋沢栄一の物語ですね。 菊水の創業は1881年(明治十四年)ですから、当時の日本の様子などを映像で知ることが出来、とても興味深く視聴しています。また、主人公が地方の豪農出身者であることから、武士や朝廷貴族ではない一般庶民の目線で描かれる部分も多く、当時の逞しく生きる農民や町民の生活を映像で見ることができるのも嬉しいポイント。近代の酒や食に関する資料を多く収蔵している菊水日本酒文化研究所担当として、所蔵資料と源を同じくするような形状の小道具が映るシーンには大注目!しています。 このドラマの小道具にちなむ収蔵資料を2種ご紹介しましょう。 見立番付 ドラマの第4 回( 3 月7 日放送)。まだ渋沢栄一が家業を手伝っていた青年時代のある日、藍農家をねぎらう宴席の仕切りを任された栄一が、良い藍を育てた農家を、「大関」「関脇」「小結」「前頭」の順に、上座から座ってもらう配席とした場面がありました。 年齢や力関係、前例を全く無視した、いわば実力主義の配席に皆が戸惑う雰囲気もなんのその、「権兵衛さんの藍がいい出来だったのよ。そこで俺は今日は権兵衛さんに大関の席に座ってもらいてえと思ったのよ」と、【武州藍自慢 藍玉力競】を披露するのです。 これは自らが行司を務め、農家が育てた藍の出来を相撲の番付さながらにランク付けしたものでした。すると配席に不服そうだった年配者が「来年こそは、わしが番付の大関になってみせるんべぇ」と笑い、大団円となったのでした。成果を格付けして公開することで、農家のやる気に火を点け、翌年から品質や収穫量の向上を、ひいては地域全体が豊かになることを狙って行った作戦だったのでしょう。 後に実業家として大活躍する渋沢の商才を示すシーンでした。この印象的なエピソードは史実に基づくもので、この番付表は最初こそ手書きだったようですが、評判となり手元に欲しがる人が続出したのでしょう、後に木版刷りになりました。そしてこの番付や元の版木も残っており、渋沢栄一記念館には番付が所蔵されているそうです。観てみたいですね。   さて、このランキング表は「見立て番付」といいます。江戸時代の中頃から、相撲や歌舞伎の番付形式に見立てて様々なものを東西に分け、大関から関脇・小結・前頭と並べて対比し格付けする一枚刷りの情報紙ですね。これが庶民の間で大流行となりました。この見立て番付の最盛期は文化文政以後の幕末から明治初期まで、まさに栄一が藍玉力競を作った頃ですね。この見立て番付には色んな種類のものがありました。料理屋、温泉地、流行の菓子、評判の美人や文化人など実にありとあらゆるものがランキングされ、見立て番付として木版刷りで出版され、庶民を愉しませたのです。   当時の庶民の生活や価値観などを浮かび上がらせてくれる見立番付、ここ日文研で収蔵しているのは「おかづのはや見」です。 志やうじんもの(しょうじんもの=精進もの)つまり野菜のおかずと、なまぐさもの=魚・肉のおかずを東西に分け、大関から前頭まで当時の人気のおかず名がランキングされているもので、明治十七年の発行です。読み込んでみるとこれが面白い!野菜のおかずの大関は八杯豆腐。江戸の頃より豆腐は定番の食材ですが、八杯豆腐とは一体どんな料理でしょう。江戸中期に出版された豆腐料理本「豆腐百珍」で調べてみました。曰く「絹ごしのすくい豆腐を用い、水六杯と酒一杯をよく煮返した後、醤油一杯を足し、さらによく煮返し、豆腐を入れる。煮加減は湯やっこのようにする。おろし大根を置く」とありました。水6・酒1・醤油1、足して8杯という事でしょう。対する魚・肉料理の大関は目ざしいわし。塩水につけたいわしを数匹ずつ藁で突き刺して干したもの。目の部分に藁を刺すので目刺し、現在でもこの形状で売られている小型の魚がありますから、あれか、と思い浮かぶ人も多いのではないでしょうか。 もちろん食卓には藁を抜いて焼いたものが出されます。番付いっぱいに江戸文字で書かれたおかずの名が並び、どれも素朴ながら滋味深いおかずばかりで当時の食材の豊かさを物語ります。相撲の番付を見立てていますから、芸が細かいのです。行司は、たくあんづけ・ ぬかみそづけなど、現代でいうご飯のお供的なものが並び、年寄はみりんに砂糖にかつお節、勧進元は醤油に塩、味噌といった顔ぶれ。 細かいところまで拘った洒落が効いていて、見れば見るほど面白い発見のある刷り物です。 いげ皿 続いては第18回( 6 月13日放送)。一橋慶喜の兵を集める「軍政御用掛 歩兵取立御用掛」に任命された栄一が、備中の塾(当時の庶民の学校)に何日も通って塾生たちとの交流を深め、見事にたくさんの志願を集めることに成功した回です。このシーンも史実に基づいており、塾は漢学者・阪谷朗廬が塾長を務める興譲館だそうです。この地で行われる鯛網を興譲館の書生らと見に行き、獲れた鯛を肴に酒盛り、「お役人様がどねんしても笠岡沖の鯛網をやってみてぇというんで」と獲れた鯛が運ばれてきたシーン覚えていますか? この鯛ではなく、盛られていた皿に注目!「いげ皿」でした。いげ皿とは、明治期を中心に伊万里や美濃などの物産地で盛んに焼かれた大衆向けの厚手の印判皿です。「いげ」とは方言でとげを指し、皿の縁をギザギザに波打たせているのが名前の由来と言われており、そのいげと、いげ部分一周に鉄釉をかけて色付けしてあるのが特徴です。 陶磁器の生産が盛んになっていた江戸後期において、高級料理屋などで豪華な色絵の薄手の大皿が用いられる一方で、庶民はこうした大量生産で比較的安価な厚手の藍色一色の印判のいげ皿が使われていた事を伝えてくれる、とても理解が深まるシーンでした。 日文研でも、この当時の庶民の暮らしを如実に伝えてくれる資料いげ皿を多く収蔵しています。庶民の食卓で喜ばれていたであろう多種多様な図柄の中から、菊の文様の皿を中心に展示しています。生活に根差した大衆の食器いげ皿について詳しく書かれた文献は見つかっていないのですが、こうしてテレビで、それも時代考証をしっかり行っているNHKの大河ドラマでいげ皿が使われていたことがとても嬉しく、この場面を見た瞬間、思わず「いげ皿っ!」と、叫んでしまいました。 江戸時代・近代など歴史区分の言葉になると、途端に歴史の教科書の中のことの様に感じてしまいますが、今も昔も人は食べて飲み、人と語り、笑い泣き、知恵をしぼり、働き、与えられた時間を懸命に生きていることに違いはありません。残された資料の数々を見、またそれらと同型のものを使っている歴史ドラマなどを見るたびに、時間は流れど基本的な人の営みは地続きなのだという思いを新たにします。長い時間の中で人々が生きている生活の中で、酒がどのように飲まれていたのか、酒とは人にとってどんな存在であったのか、人は酒にどんな役割を求めたのか、そんな問いかけへのヒントがみつかる日本酒文化研究所でありたいと願ってやみません。 ・参考 渋沢栄一記念館公式サイト http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/kinenkan.html 渋沢栄一の見立て番付を紹介するにあたり、渋沢栄一記念館様にご協力をいただきました。この場を借りで深く御礼申し上げます。 NHK「青天を衝け」公式サイト https://www.nhk.or.jp/seiten/ ・デジタルブック版菊水通信はこちら https://www.kikusui-sake.com/book/vol16/#target/page_no=7

2021年07月27日

【菊水140周年】北越後の恵みを感じる新潟県新発田産コシヒカリ

皆さんこんにちは。菊水酒造です。 140周年キャンペーンコラムをご覧いただきましてありがとうございます。 この連載をご覧いただき、北越後を実際に旅しているかのように楽しんでいただけたら幸いです。 今回は、「”北越後の旅”気分プレゼントキャンペーン」賞品の一つ、『新発田産コシヒカリ』の魅力を、皆様にたっぷりお届けします。ぜひ最後までご覧くださいませ。 ※キャンペーンのご応募は現在終了しております 晴天の中、車を走らせて 菊水酒造の本社がある新発田市島潟から、北上すること10分。 綺麗な田んぼ道の先に「北越後新発田産コシヒカリ」を育てる「そうえん農場」があります。 新潟のゴールデンウィークの風物詩 新潟のゴールデンウィーク時期の風景と言えば、皆さん何を思い浮かべますか? 新潟は、連休の少し前頃から田植えが始まり、一面茶色だった田園風景が段々と緑で染まっていき、青い空と緑のコントラストがとても清々しい風景が一面に広がります。 それが、新潟のゴールデンウィークの風景。 連休最終日は休みが終わってしまう寂しさがつきものですが、新潟のゴールデンウィークはちょっと違います。田んぼの稲たちが元気に上を向いて伸びようとしている姿に元気を分けてもらえて、また頑張るか!という気分にしてもらえます。 田舎に帰ってきた皆さんがまた帰って来たいと思える景色。そんな田園風景をつくってくれている「そうえん農場」さん。 私たちが訪問した日は、ちょうどその田植え作業が落ち着き、田の水管理を行っていた頃。そう教えてくださったのは、『新発田産コシヒカリ』を作っている「そうえん農場」の下條荘市さんです。 新潟県新発田市にある「そうえん農場」さんは、美味しいものを作り、美味しく食べてもらいたいという思いで、農作物を育てています。 この思いはとても強く、「JGAP認証」や「穀物検査場及び穀物検査資格」など、食の安全や環境保全に取り組む資格を認証・取得されるほど。 さらに、品種改良した作物の生育試験や、農業管理システムの開発支援を行うなど、地域にも大きく貢献されています。 溢れだす魅力的な人柄 お米作りの知識に関しては、ほぼゼロと言ってもいい私たち。 そんな私たちにも分かりやすいように、専門用語をかみ砕いて、例えを交えながら説明してくれる下條さん。その眼差しは、とても熱く、日頃から対話をしながら農作物と向きあっている姿が思い浮かびます。 愛情たっぷり『新発田産コシヒカリ』 今から24年前に、勤めていたJAをやめ、42歳から農業を始めたという下條さん。 今では、農業を始めた時の10倍以上にあたる「23ヘクタール」ある農地を管理されているそうで、繁忙期には人員を増やして作業を行うこともあるそうです。 ~お米ができるまで~ ・種まき(4月下旬)…田に植える苗を育てます ・代かき・田植え(5月上旬から中旬)…田の土を整え、苗を植える ・水管理や除草作業(6月上旬)…稲が元気よく育つように環境を整える ・中干し(6月中旬)…田の水を抜き、稲に危機感を与えて無効分けつ(稲にならない茎)を抑制 水を入れる(6月下旬) ・追肥(7月下旬)…出穂後、稲の赤ちゃんである幼穂が茎の中にできたらご飯となる追肥を行う ・害虫管理(8月) ・稲刈り(9月) ・稲を乾燥させ、玄米にする(9月・10月) 皆さんもご存じの通り、ほぼ1年間をかけて、稲と向きあうお仕事。私たちの手元に届くまでに、長い月日をかけてたっぷりと愛情が注がれます。 昔から「お米一粒でも残したらバチがあたる」と言いますけども、それも納得です。 その時々で変わる顔 1年を通して、作業をしていると、稲たちの様子が違うように、その日その日で見える風景も違うのだとか。 今回は特別に、写真愛好家でもある下條様にとっておきの写真をいただきました!   皆様にも「北越後の大地」の素晴らしさと美しさを感じていただけたら嬉しいです。 一番好きな景色をお伺いしたところ「やっぱり、稲穂が頭垂れてる姿だねぇ~」とはにかむ下條さん。 やっぱり、手塩にかけて育ててきたお米が収穫に近づいた姿は、何物にも代えがたい達成感と嬉しさがありますよね。 『新発田産コシヒカリ』そのおススメの食べ方は? 「にぎりまんまが一番。」と下條さん。 おススメの具材は新潟県村上市の塩引き鮭とオカカ!と即答。のりを巻かずに、味付けはほんの少しのお塩でオッケーとのこと。   これぞ「至高のにぎりまんま!」 お米一粒一粒がしっかり立って、口に含んだ時が本当に至福の時でした。塩だけでとても十分!噛めば噛むほど甘みが増して、次から次へと口にほおばってしまう美味しさ。 新潟北越後の米最高です!!丹精込めたお米、しっかりといただき、元気を分けてもらいました。 皆様もぜひ、賞品の1つ「笹川流れの塩」も使って、「北越後の恵み」をご堪能下さい。 最後までお読みいただきありがとうございました。 謝恩 このたびは、「北越後の旅気分プレゼントキャンペーン」にご応募いただきまして、誠にありがとうございました。 菊水が創業140周年を迎えることが出来ましたのも、みなさまの一缶、一杯に支えていただいたおかげでございます。 菊水は、これからも人々の心豊かなくらしに寄り添いながら、お客様のご期待にお応えできるよう精進して参ります。何卒変わらぬご支援ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

2021年07月08日

賞品に見る北越後の豊かさ|新発田テロワール

北越後、とは。 あらためて「豊かな地」なのだと思いました。菊水の創業百四十周年を感謝するキャンペーンの賞品を見ての思いです。プレゼントキャンペーン自体は6月末に応募を締め切っているのですが、「北越後の旅気分BOX」と銘打った賞品の品々を見て、この地の豊かさに改めて気づいた話をさせてください。 「米どころ」と枕詞付きで語られるほど、新潟は全国有数の米の美味しい地として名を馳せています。地元農協のサイトによると、コシヒカリに代表される新潟米のおいしさの理由は①豊富な雪解け水、②肥沃な大地、③適切な自然条件 の3つなのだそうです。 北越後の恵みの数々。 菊水の地 新発田市ももちろんこの3点をしっかり備えています。雪溶け水はその量の豊富さで農業用水として水田にたっぷり活用されるのみならず、山間地の山林の落ち葉が創り上げた腐葉土の養分をたくさん含んで川へ流れ出、米作りに大切な養分を含んだ肥沃な土壌を作り上げるのです。また、米の食味を左右する大きな要因は稲穂が発育・肥大する登熟期の気象条件です。この時期の最適気温は24.5℃、そして昼夜の温度差が大きいことが重要なのですが、この地の気象は条件にぴたりと当てはまるのです。これはもう新潟のお米が美味しいわ けですね。 また、この豊饒な大地が育むのは米だけではありません。農業大国新潟県の中でも、特に新発田市が県内一の出荷量を誇るのがアスパラガスです。アスパラガスは地下茎と貯蔵根に養分を蓄えた株から芽吹く野菜ですので、育つ土壌が特に重要なのだそう。新発田産アスパラガスが太く、甘く、柔らかいのは、この肥沃な地の恩恵を受けていることは想像に難くありません。余談ですが、疲労回復作用で知られる栄養素のアスパラギン酸は、アスパラガスに多く含まれていることから、この名前がついたのだそうですよ。 そして新潟の夏といえば枝豆です。新潟県人にとって枝豆は、おつまみであり、おやつでもあり、おかずでもある万能の食材なんです。おかずでもある!?そう、小鉢に品よく盛り付けるのではなく、ザルに山盛りでモリモリバクバクと食べるのが新潟県人の常識。新潟の枝豆の作付面積が全国一位(平成30年農水省統計)でありながら、全国的に新潟が枝豆の産地だと余り知られていないのは、自分たちでほとんど食べ尽くしてしまうからなのです。たくさん美味しい枝豆が採れるのも肥沃な大地の恵みに他なりません。 さて、菊水の地 新発田市を含む地域「北越後」は、その呼び名のとおり新潟県(越後)の北部に位置します。この地の東部には飯豊連峰がそびえ、そこに源を発する加治川と支流が滔々と流れ、豊かな大地が開け、国内有数の農業地帯であるのは前述のとおりです。片や北西部は日本海に面しており、白砂青松と称えられる美しい海岸が拡がっています。中でも屈指の透明度を誇るのが、海岸「笹川流れ」。 緑豊かな山を背景に、日本海の荒波の浸食によりできた奇岩・岩礁や洞窟、澄んだ青い海という豪壮な景観は、国指定の名勝及び天然記念物となっています。地元ではこの美しく清らかな海水での塩づくりも行われています。海水を何度も晒し布に通して丁寧に海のアクを取り除き、その後じっくり時間をかけて煮詰めてつくる塩は、自然の恵みを人が手間ひまをかけ凝縮させた、まさに日本海の結晶そのものといえるでしょう。 私達が自然から受け取っている有難い恩恵は食すものばかりではありません。心身に与えられる「癒し」もまた、大きな恵みのひとつですよね。菊水から車で20分ほど走ると温泉地が拡がります。 美人の湯・不老長寿の湯として親しまれている月岡温泉です。旅館や飲食店、お土産屋が立ち並び、観光客に人気の温泉街ですが、お伝えしたいのはその泉質です。弱アルカリ性で肌に優しく、硫黄の含有量も多く、美しいエメラルドグリーン色をしているのです。大正四年に開湯し、当初は湯治場として地元の人々を癒し、今もなお尽きる事なく滾々とわき出す大地の恵みです。   この様に賞品のいくつが私に語りかけてくれたのは、北越後がいかに豊かな地であるか、ということでした。山と川と平野があって、冬は寒く雪が降り、夏はしっかりと陽に照らされる、ここ北越後。雪解け水は山々を潤し緑を育む。その山林の養分を含んだ流れは河川となり大地を肥沃にし、海へと流れ込む。栄養豊富な水を求めてプランクトンが集まり海を清らかに保つ。その大いなる自然の営みの中から、人が知恵を絞り手間を惜しまず、恵みのおすそ分けを頂く。 まるでこの地は、日本という国の各地に散在している「自然の豊かさ」を全て集めて、ギュッと凝縮したような地域だということに、あらためて気づいた次第です。 「私たちは、感謝と良心を以って、大地の恵みを醸し、こころ豊かなくらしを創造します」 初代高澤節五郎が若干16歳でこの地で酒を醸すと決めて以来、百四十年ずっとこの地で大地の恵みを醸してきた菊水、自然の恵みへ感謝をし、また賜った恩恵をお客様とこの地へ還元していきたい思いを込めた、菊水の経営理念です。 これまでも、そしてこれからもずっと菊水は豊かなこの地に根差し、大いなる自然の恵みを循環させて参ります。 *菊水は今年 創業百四十周年となります。この節目に改めてご愛顧への感謝を申し上げます。そのお礼の気持ちのプレゼントキャンペーンは6月末をもって応募終了となっております。ご了承のほど宜しくお願いいたします。 ◆~菊水通信2021年夏号より~ こちらの記事は、デジタルブックでもご覧いただけます。